どうしようもない落ち込み気分になるときの最大の理由として
自分の存在否定につながる出来事が起こり、自分の価値はない。と感じてしまうと
いうのがあります。それは、
認められたい感や、信用されたい感を起こし、渇望感となり、それがもとで、
言動行動に影響を及ぼすこともあります。私も、こうした経験をする中において、
良き患者は、良き治療者たりうる。を目指し、自己分析しています。
人への尊重の態度が足りないのではないか。もっと積極的に人を尊重してさえいれば、
相手を危機的状況に陥らせることがないため、自らの存在否定を誘発させることが
ないのではないか。ということに気づきました。
他人は私。 私は他人。 なんですね。
他人は私とほとんど同じ。 私は他人とほとんど同じ。
陰に隠れている場合もありますが、どんな人も持つ、キラっと光る個性を見つけて、
積極的に言葉をかけることは、いつでもできる尊重の行為。
家族・身内等、無条件に感覚として信頼・理解できる関係であっても、無意識に
心の中とは違う状態を、相手に伝えてしまっている場合があります。
それは、感謝や尊敬や愛などの、心の大半を占めていることが当たり前になり、
そのことは言葉としていちいち言わず、指摘めいたことや、要望など、自己都合に
関係する部分だけを優先して、言葉を発していることがあります。
また、相手の心ある言葉に対して、心ある言葉を返さないことでのひずみがでたり
してしまいます。
言葉ひとつで救われ、支えられることがあるし、
言葉ひとつで舞い上がり、ありえないパワーを発揮できたりする。が、
言葉ひとつで、または、言葉をひとつが足りなくて、知らない間に、相手をくすませ、
やる気を奪い、これが高じると、認められたい感から、攻撃性が生じたりして、
互いに自分の身を守るだけの冷たい関係が生まれてしまうこともあるようです。私共は
障がい者の支援事業に取り組んでいますが、「支援」という名前に区分されている
ことで、本当に、支援しているような錯覚を起こし、そのことに酔っていたようなところ
がありました。
オプティ猪野氏のブログでも紹介されていた、藤田社長の東京資材株式会社のように
障がい者を50%以上雇用し、それぞれの個性や生活状況に応じた配慮をして、
皆立派に働いていらっしゃる会社が、支援なんて言われないことと思います。私共の
障がいのある仲間は、私たちを信頼し求めてくれて、先生と言ったりしてくれて、
支援できているような錯覚を与えてくれて、調子に乗らせてくれていました。
そのおかげで、私たちの心に、自分の存在価値を見出すことができ、たっぷりと
満たされたため、障がいのある人それぞれのニーズを心をこめて汲み取ったり
掘り起こしたり、ひたすら受け止め傾聴したりして、その人の権利を支え自立を
支援しようというような行動に、全身全霊を傾けられるような、自発的な精神が
集まっていったんですね。
そうした輪の周りに、また、新たなパワーの輪が生まれて、環境づくりがはじまり、
障がいのあるなしにかかわらず、一人一人がそれぞれ活き活きと個性を発揮して、
互いに支え合い、成長し合ってこられたところがあると思います。
日常的に、地域市民と一緒に混じってふれ合いの機会が多いほどに、こうした輪は
連鎖して広がり相乗効果を生みますから、今までになかった事業効果を出し、
不可能も可能にしてきたところもあります。それは、
健常者だけでやってきた取組を、障がいのある人たちとともに取組始めたことで、
互いの成長に加え、生活者の意識を変え、収益や雇用が伸びる等の結果が出た事実
からもわかります。
支援したと思っている側は、それは錯覚かもしれないし、舞い上がらせてもらってるだけ
かもしれない。その支援者といわれる者が、
支援してもらった側になった場合にも、任せておけないから。女性だから。障がい者
だから。等々の理由によるものかもしれない。
いずれにしても、調子に乗せてもらえて、人としての存在が認められ、お互いに
認められた気持ちになれてこそ、情熱が沸き、今までになかったアイデアやパワーが
生まれ協働できたということを、今一度自覚したいと思います。
人=自分 を尊重する積極的な言葉がけをしていくことを心がけます。それでも
いそがしさに取り紛れてとかいって、つい自分本位になり足りないことと思います。
心構えとは、どんなに磨いても毎朝ゼロになる能力とのことです。
毎朝見つめなおしていきたいと思います。
繊細で豊かな言葉がいっぱいの言語が使える日本に生まれたましたから。